2021年05月04日

世界チャンピョンが成し遂げた偉業(ピンポン外交から半世紀)

001_63-thumbnail2-thumbnail2.jpg
 半世紀前の1971年は日中関係に大きな転機を迎えた年です。
 わたくしが両親と共に帰国したのが1970年でしたので、ちょうどその翌年にあたります。
 その当時はアメリカが沖縄、そしてソ連が北方領土を占領していた、いわば冷戦時代だったので、アメリカ陣営に入っていた日本に対しソ連は核兵器に物をいわせて、ソ連の指導者たちは日本のさまざまな人に対して威圧的な発言をしていました。
 その所為なのか、多くの日本人はソ連に対して非常に悪いイメージをもっていたように記憶しております。
 ただ、当時ソ連と最も敵対していたのはアメリカではなく中国だったのです。
 さらに中国は1970年頃から対外戦略に大きな変化が見られ、ソ連に対抗するためアメリカを含む西側諸国とも手を結ぶといったこれまででは考えられなかった大胆な外交政策を取るようになりました。
 従って、日本人の中国に対するイメージは比較的に良かったのです。
 1966年に中国で文化大革命が勃発し、それまで(1961年~1965年)世界卓球選手権で、3大会連続で団体優勝していた中国の卓球チームが2大会も不参加したのです。
 そして外交政策の転換と日本卓球協会や友好団体の努力によって、1971年に中国は6年ぶりに日本で開催される世界卓球選手権に参加し、再び世界の舞台に立ったのです。
 前述のように、中国の復帰にあたって日本のさまざまな方が水面下で尽力していました。
 日本卓球協会会長の後藤鉀二氏が世界卓球選手権名古屋大会を世界一のものにしたい一心で西園寺公一先生に相談し、二つの中国問題を解決するために台湾をアジア卓球連盟から除名することを決断したのです。
 さらに日中友好団体の方々が中国へ渡り周恩来首相と直談判して、漸く中国チームの参加が実現したそうです。
 2大会不参加だった中国チームでしたが、それでも荘則棟選手は世界公認のチャンピョンで、卓球界における大スターだったのです。
 中国が6年ぶりに参加する世界卓球選手権名古屋大会で右翼などの妨害を防ぐため、大会会場である愛知県体育館周辺では厳戒態勢がしかれ、中国の選手団は他の国と違うホテルが割り当てられていたそうです。
 そしてある日、アメリカのある選手(グレン・コーワン)がシャトルバスを乗り間違えて中国選手団のバスに乗り込んだのです。
 あの頃の中国ではまだ文化大革命の真最中だったので、アメリカの選手とは絶対に接触してはいけないという厳しい紀律があったのです。
 それにも拘らず、荘則棟選手は中国を出発する前に周恩来首相から「友好第一、試合第二」ということばを受けたことを思いだし、周りの選手たちが止めたにも拘らず、「アメリカの選手も中国人民とは友達だ。」といって相手と握手を交わしたという逸話があります。
 これこそがこのあと急テンポに進んだピンポン外交の始まりです。
 ピンポン外交(1971年4月10日、米国卓球チームが訪中)後、1972年2月21日にニクソンアメリカ大統領が訪中され、1972年9月25日に田中角栄総理大臣が訪中し、日中国交正常化を実現させるといった流れとなります。
 1971年の名古屋国際卓球選手権が開かれていた年に、中国卓球ナショナルチームは国際選手権が終わってあとに、東京に来て日本チームと親善試合を行ったのです。
 上の写真はその時に撮ったものです。
 実はわたくしの姉がその時に通訳をしていて、たまたま観戦にきていたわたくしを中国チームの控室に連れていき、そこで撮ったものです。
 荘則棟さんが姉とわたくしの間に立って撮った一枚ですが、姉から「自分の写真を絶対に出さないように」ときつくいわれているため、左の1/3はカットしています。
posted by バームー at 07:31| 東京 ☀| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください